「老農森川源三郎翁と私」 

佐藤 哲男
 

最近、秋田県内各所において「森川源三郎展示会」が開かれています。森川源三郎は私の母方の曾祖父にあたります。源三郎は石川理紀之助、齋藤宇一郎とともに秋田県の「農業三大人」と称されています。質素で勤勉、そして農民の生活向上のため、ひたすら実直で利他的に明治・大正期を生きた人です。

源三郎は、1845年(弘化2年)、河辺郡新屋町百三段新屋字黄金谷(現在の新屋表町)に秋田藩士の九代目森川又五郎の長男として生まれました。武士として文武の修行に励みながらも、若いころから農業を志していたようです。 時代が明治となり、24歳で戊辰戦争に出兵。35歳の時に秋田県庁の勧業係に奉職し、ここで同じ職場にいた石川理紀之介を知り、両人は協力して秋田の農業の発展に尽くしました。中でも特筆すべきは、秋田県種苗交換会の発足、発展、継承に関する功績です。第一回交換会は明治11年(1878年)に秋田県の主催で秋田市内の浄願寺において開催されました。それ以後今日まで130年にわたって連綿と続けられています。

源三郎が勤務した県の植物試験場では、最初は、食用菊について研究し、いろんな工夫や努力を重ねて、一般に売りだされることができました。その後、大豆、麦類など農作物の品種改良や栽培方法の工夫・研究を熱心に行い、その成果を惜しみなく人々に広めました。明治18年、秋田では農作物の出来が悪く、多くの人が生活に困っていました。
 源三郎は、ジャガイモを作る事を呼びかけ、作り方を書いた本を村民達に配り、よい成績を納めました。そのほか、リンゴ、スモモ、アンズ、ウメなどの果樹の栽培を奨励し、ナスの作り方や料理法を研究して人々に勧めました。また、当時まだ知られていなかった白玉粉やデンプンの製造を始めました。また、麺類や氷どうふを作り人々に教えました。さらに、疲弊しているにもかかわらず、生活ぶりがぜいたくになっていく農村の状況を憂え、凶作や不作に備えて緊急時のために日頃から貯金の大切さを訴えました。このことは、各地に郵便貯金組合、稲作講などが創設されるきっかけになりました。

源三郎は第一級の農業指導者としてさまざまな活動を行い、県内外の農業発展に尽力しました。58歳のとき、石川翁とともに九州の農民指導に赴き、農会組織運動にも努力しました。その後、川辺郡農会長、秋田県農会長などの公職を務めました。61歳になったときに、3000坪の宅地や畑を含むすべての家督を長男の元直(もとなお)に譲り、上北手古野の二見山に六畳一間に押し入れと土間のついた粗末な「余楽庵」を自分で建てて住み、山居生活を送りました。余楽庵での生活は非常に質素なもので、農具、生活道具などは修理して長く使い、廃物を利用して自作の道具を作るなど、「天下に廃物なし」が日常のモットーでした。今でいうエコやリサイクルの原点ともいうべきものです。また、山に植林し、公園の様にして人々に親しんでもらい、ここで作った杉の苗6700本を近くの村の人々に寄付して植えさせました。

生涯の友であった石川理紀之介は大正四年に71歳でその生涯を閉じました。 その後、源三郎は大正14年に胃腸を患ったため余楽庵を引き払って新屋の本宅に帰り、1926年(大正15年)、82歳で亡なリました。
 源三郎は遺訓として「三心」という言葉を遺しました。三心は「発心」「決心」「相続心」の三つ。「物事を思い立って行おうと決めることも大事だが、それ以上に続けていくことが大切である」。「相続」は「持続」を意味します。これらの三心の生き方は源三郎の人生そのものを表す言葉と言えます。「余楽庵」は源三郎の死後森川家の敷地内に移築し、その後秋田市に寄付されました。建物は現在でも原型のまま保存会により管理されており、一般の方々も見学することができます。

森川家の敷地内には源三郎がかつて植えた四季の果物の木がその後もすくすくと育っていました。私は幼稚園や小学生の頃に母に連れられて新屋へ行くのが子供心に大きな楽しみでした。
 当時、母の父(私の祖父)の森川元直は長年務めた新屋町の町長を引退し、孫と会うのを楽しみにしていました。私の母は9人姉妹ですので、その子供、つまり私のいとこは30人もいます。県内の彫刻家の伊藤紘美はその中の一人です。いとこの中で当時秋田市内に住んでいたのは私の家族だけだったので、母と一緒に森川をたびたび訪れました。元直おじいさんはいつでも囲炉裏端に座っていて、「テツ坊よぐきたな」と言ってかわいがってもらいました。70年以上前のことですが今でも鮮明に憶えています。
 我が家の床の間には、源三郎(本名、元貞)の直筆による掛け軸が掛けられています。「埋火のもとにしたしむ老の身もとしのくるるを惜しむ今日哉」(大正11年歳暮作)。源三郎は森川家の菩提寺である新屋の忠専寺に眠っています。            

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